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第7回 OTAGAISAMAの輪!OTAサポ 瀬賀啓衣さま

Information

第7回 OTAGAISAMAの輪!OTAサポ 瀬賀啓衣さま

今回は、OTAGAISAMAサポーターとしていつも応援してくださっている、瀬賀啓衣さんにインタビューをさせていただきました!

山あり谷ありな人生と、それらを経て瀬賀さん自身がやりたいこととIAECの活動がどのように重なっていくのかをお伺いしました!

第7回 OTAGAISAMAの輪!OTAサポ 瀬賀啓衣さま

自己紹介

 瀬賀 啓衣(せが ひろえ)と申します。

 現在は、オンライン・コーチ起業術と銘打って「在宅でオンラインを使って」というコンセプトで、コーチングやカウンセリング、講師業で独立起業されたい方のコンサルタントをしています。

 また、一般社団法人日本適正力学協会において、人の「強み」や「適正」が分かるタイプ診断「ウェルスダイナミクス」のトレーニング・ディレクターとして認定講師の方をサポートしたり、私自身も講座の講師を務めることもあります。

ウェルスダイナミクスとの出会い

 今の活動を始めることになったのは、2010年に仕事を辞めた後に「自分は何も出来ないんじゃないか」とすごく落ち込んでしまっていた時期があって、セブンイレブンでたまたま立ち読みした本の中でウェルスダイナミクスが紹介されていて、これを知らなかったから私は自分に向いてないことばっかりやってきたんじゃないかみたいな気づきがあって、直ぐに調べて講座に参加したことがきっかけでした。

 ただ、その講座に参加した時は、起業しようと思っていたわけではなくて、同じ講座に参加していた人たちが資格を取って自分でもセミナーやろうと盛り上がっていたのを、「そうなんだ」と一歩引いて観ていた感じだったので、最初は「講師を目指すぞ!」といったモチベーションや考えは全然なかったです。

 そしたら、 ちょうど同じ時期に旦那さんの務めていた床屋がなくなることになって失業をしてしまったんですね。それから、全く動けなくなるくらいに旦那さんは落ち込んでしまって、私はアルバイトで働いてはいたんですけど、外でもっと働いてこなくちゃいけないなと思い始めていた時に、ウェルスダイナミクスのつながりの中で、横浜に職業訓練校を始める人がいて、そこで雇っていただくことができました。

 最初は事務仕事だったところ、徐々に講師の仕事をさせていただけるようになって講師業の基礎が磨かれました。無茶ぶりな側面もありましたが、そこでしか収入が無いからやるしかないと思ってやっていましたね。講師として授業をやりながら、ウェルスダイナミクスもそこのスクールでも徐々に取り入れてくださるようになって、私が教えるようになり、段々と鍛えられていき講師として話せるようになっていきました。

 その後、このスクールは法律が変わった影響で1年で無くなってしまうんですが、協会の人に推薦してもらって別の起業塾の方で専属コーチとして仕事をいただいたり、大学の就活支援プログラムの運営補助のお仕事もいただいた後に、ウェルスダイナミクスの協会から専属のスタッフとしてお声掛けをいただき、当時の専務理事として働かせていただくことになりました。また、専任講師としても動画教材やプログラムづくり、今の認定講師のみなさんの基本になる台本づくりといったお仕事を沢山させていただくことができました。


 ただ、専務理事は講師のサポートが主なバックオフィスの立場なので、前に出たい性格というのもあり、わがままを言ってトレーナーとして独立をさせていただいて、そこから「オンラインコーチ起業術」とコンセプトで、コロナ禍に入るちょっと前くらいから、オンラインでお仕事をさせていただいてます。



様々なオファーをいただいて仕事をする、まさに「引き寄せの法則」を体現されているような瀬賀さん

その一方で、職業訓練校での仕事から「ようやく自分にはまった感じがしている」とも...

そこに至るまでには、人生年表にあるような激動の人生を生きていらっしゃいました。

ウェルスダイナミクスとの出会い

波乱万丈の10代・20代

 4歳の時に両親が離婚しまして、原因が父のギャンブルと借金だったんですけどその父に引き取られてしまって、父1人では育てられないので、よその家の社長さんのところに預けられたり、記憶うっすらであまり覚えていないのですがよく知らない老夫婦の家に預けられていたこともあり、私はいらない子なんだなと感じながら育ちました。

 その後、父の田舎である新潟に祖父母がいたので小学校一年生で入学しましたが、それでも何かの拍子に祖父と父が大喧嘩をして、2学期が始まる前に千葉県松戸市の小学校に転校することになり、父との2人暮らしが始まりました。お酒は飲まないのですが、ギャンブル依存で暴力的な父だったので、今だと虐待で捕まるようなことが多かったですね。

 8歳の時に、東京都江東区の小学校に転校して、今も仲良くしている親友と出会ってちょっとずつ、楽しくなっていったんですね。彼女も父子家庭という共通点があって仲良くなりました。その後も本当に要所要所で助けてくれる、精神的にずっと支えてくれるその親友に会ったのは一つの大きい出来事でした。

 それから中学2年生の時に、カナダの姉妹都市提携のあるところに中学生を短期留学をさせてくれるプログラムが始まり、実際に参加した先輩のお話も聞いたりして、自分が3年生になったら絶対に応募しようと思っていました。家が貧乏だったので、この機会を逃したら海外に行くことなんて一生できないって思っていたんですね。すごい祈りを込めて応募したところ、派遣生に選ばれて、カナダに行かせていただくことができました。それをきっかけに英語を好きになり、英語コースのある女子高に奨学金いただくことができて入学しました。

 高校では生徒会をやって、アルバイトを2つ掛け持ちしてたんですよね。顔は元気でまん丸でしたけど、キョジャッキーっていうあだ名をつけられるくらいに、よく倒れたり寝込んだりして、1回風邪引くと治らないしなんでこんなに身体が弱いんだろうと思ってましたけど、今思えば、忙し過ぎたからでしょうね。家庭環境的にもぐれたりしそうとよく言われるんですけど、「子どもの頃からあそこのうちの子はぐれるよ」っていう友達の親とかの大人がそう言っていることを友達経由で聞いたりしていたので、そういう声への反骨心みたいなのもあったんだと思いますね。

 当時は、各学校の生徒会長を早稲田大学に推薦する仕組みがあったんですけど、たとえ早稲田に行けなくても、何とかアルバイトしながら奨学金を借りていこうと思ってたんです。そんな矢先の高校3年生の3学期目前っていう日に、父が倒れて、また借金があることが分かったうえに、アパートの家賃も滞納していて直ぐに出ていくことになりました。

 父は入院中なので、私が生活保護の相談に行ったら、その役所の人に泣くまですごい説教をされた挙句に、生活保護も通らなかったので、結果的にはケアワーカーさんにお世話になりました。それから、人工透析をすることになったので、腎不全で障がい者の手続きをしてくださったり、色々な人に助けていただきましたね。ただ、父の親戚からも冷たい対応をされたりしたことが重なったりして、虚無感でいっぱいな10代の最後を迎えました。卒業式では、生徒会長だから答辞を読むんですけど、悲しくもないし嬉しくもないような感情が全然湧いてこない状態でしたね。

2回目のカナダ渡航で気づいた、変わる必要があるのは「自分自身」

 そんな中で当時付き合っていた彼がすごい良い人で、今でも感謝してもしきれないくらいで...

一緒に住んでくれたりして、私が徐々に回復してきた時に彼と結婚したかったんですね。でも、結婚する前にやっぱりもう一度カナダに長期で行ってみたいと思って、2年間お金を貯めて、その彼のサポートもあり、20歳の成人式が終わって直ぐくらいのタイミングでワーキングホリデーの制度を利用してカナダに渡りました。

そのカナダでも、やっぱり出会いがあって、日本ではあんまり会わない変わり者たちがみんな来てるわけですね。なんかそこにいると自分が普通な感じがして、海外ってすごい楽だなと感じました。



 それと、もう一つは、すごく転機だなと思うのは、3ヶ月ぐらい経ったら自分の周りの人間関係が、登場人物が違うのに日本にいたときと同じみたいになってきたんですよね。また何か変な我慢とかしだして、そういう状態になった時に、世界中どこまで逃げても、自分が変わらないと何も変わらないんだっていうのが、2回目のカナダですごい体感的に分かりましたね。だから、このことが今の仕事へのきっかけの一つかなと思うんですよね。

でも、それに気づいたからといって、やっぱり染み付いたものは深かったです。20歳という年齢で気がつくのは早かったけど、その後に物にするのがすごく時間がかかります。

結局、カナダには2年間いて、そのまま移住したいと思ってあの手この手で頑張ろうとしてたんですけど、ちょっと心折れる出来事があって、22歳で日本に帰国しました。

2回目のカナダ渡航で気づいた、変わる必要があるのは「自分自身」

結婚と娘誕生、そして離婚...

 帰国してからはガードマンの会社で働いて、そこで出会った人と結婚をしました。ただ、この結婚が最初からうまくいってなくて、、お付き合いしてる時は良いかなと思ってたんですけどね。出会った時、その人は元々婚約者がいて、別れたって聞いたので、お付き合いしたんですけど、実はお別れになっておらずで、なんだか揉めてしまって...


 結婚を止めようかなとも考えたんですけど、当時はカナダから帰国して再婚した母のところに住んでいたので、早く出てあげた方が良いかなみたいな考えもあったりして、どうかなという思いもありながら、ちょっと急いで結婚したんですよね。けれども、結婚当初から帰りたいって言って泣いていることが多い日々でした。それから娘が生まれて、それはそれで幸せでしたし、相手の方も悪い方ではなかったんですけど、その方が宗教にはまってしまって、色々と話がかみ合わなくなっていきました。たとえば、「お前がお経をちゃんとあげないから(子どもが)女の子になっちゃった」とか言われたりして、色々うまくいかずに過食症になってしまったりしましたね。


 けれども、外面的に私は明るいんですね。悩んでても落ち込んでても、喋り方が明るい感じだから、周りの人もあまり悩んでるって気づかないようで。「言ってもしょうがないな」って諦めるような悪い癖であって、相手の方に色々言いたいんだけど、腹が立って言おうとすることも「もういいや、言ってもしょうがないし」って先送りしちゃったりして、相手の方が本当に悩んでるって気づかなくて、結婚は6年間だったんですけど、一度も喧嘩をしないまま離婚しました。最終的には、ぷつんって糸が切れた感じでしたかね。離婚届を出した時も、提出した後に「何で出したの?」って聞かれたくらいに伝わっていなかったみたいですね。

保険の営業時代から「ウェルスダイナミクス」と出会うまで

 離婚した後は、娘の幼稚園のママ友から紹介していただいて保険の営業を始めました。アポイントはあまり取れなかったんですけど、知人・友人を一緒に仕事することへ誘うっていう作業が上手かったみたいで、6年間それで毎年表彰されてました。その時に再婚したのが、今の旦那さんです。その後、ある時に解約が相次いでしまって、知らない人もいるかもしれませんが、解約があるとお給料が減るシステムだったので、ちょっと嫌になって、家を売る営業会社に転職をしました。


 ただ、その転職先の営業会社が軍隊みたいだったんですよね。休みは無いし、夜中の12時まで勤務しているみたいな...

子連れで再婚したばかりなのに、旦那さんは私の娘と過ごすことの方が多くなってしまって、これは家庭が壊れるなと思った時に、当時の会社全体でトップの営業マンに、「うん、お前はもうやめた方がいいぞ他の支店だったらいいけど、この支店はやめた方がいい。お母さんをまずちゃんとやりなさい」って言っていただいて、転職して2ヶ月か3ヶ月ぐらいで、辞めちゃったんですね。すごい挫折感がいっぱいで...


 実は、その会社には特別枠で入れていただいてたっていうのを入社時に分かって、本当は素人と女性は取らないはずの面接会だったらしいんですけど、支店長に見込まれて取っていただいたのに3ヶ月で辞めて、すごい挫折感の中で、東日本大震災が起きたりして、落ち込んでる中でふらっと立ち寄ったセブンイレブンでの立ち読みで「ウェルスダイナミクス」と出会うんですよね。

IAECとともに生み出したい「公正」

 あるワークショップで、代表の山口さんと出会ったのがきっかけで、IAECさんを応援させていただいています。それ以降は、山口さんの活動にとても刺激をいただいています。私も旦那さんも誰かを雇ったりする「会社」にするっていうこともできてない個人事業主なのですごいなと率直に思って、ちょっと憧れとジェラシーと感じていましたね。(笑)

 その後、facebookとかで繋がっていただいて、積極的に活動されたり海外に行かれたりとかっていうところで、ずっと尊敬とジェラシーとで気になる存在ではありましたね。可能性という言葉が好きで、とてもそれを感じる方だなと思っています。私自身の生い立ちもそうなのですが、不利な立場にいる方が輝くというのがすごく好きなんですよね。

 

 また、SDGs(国連によって定められている「持続可能な開発目標」)で言えば、「『16:平和と公正』をすべての人に」が私のテーマ。平等ではないから差別が生まれるのであれば、その差を利用して公正を生み出したいと思っています。


 実は、15才の時NHKの特集で見たJane Eliott先生の人種差別のワークショップが記憶に残っていて、(41歳時に)ふと思い出す機会があって調べたところ、facebookで見つけて、ちょうどその年の日本のお盆のタイミングで(海外の)先生の家に泊まってワークショップのファシリテーターのトレーニングをするという投稿をみて、連絡を取って行かせてもらい、色々なお話しを聞かせていただいたことは一生の思い出ですね。

 

 私は、差別が嫌っていうより、世の中ってそもそも平等じゃないと思ってるんですよ。「公正」であるべきだなって思うんですよね。だから、体力に差があったら少しハンデをつけたりして、一緒の競技を楽しむとか。(下の画像の)左側が平等、右側が公正を表してるんですけど、こういうのが本当に好きなんだなっていうのが、カナダで多様な人種や文化と関わった経験やEliott先生のワークショップに参加したことによって、より確信に変わりましたね。

IAECとともに生み出したい「公正」

OTAGAISAMAサポーターとして活かしたいこと

 車いすの方で人とお話したり、精神的なサポートをすることに興味がある方がいたら、コーチとして起業できるように支援・養成して、ちゃんと稼げるように経済的自立できる方々がIAECさんを通じて生まれてくるのをお手伝いしたいなと思っています。

 

 楽しく学べるセミナーやワークショップが好きだし、自分自身が得意だとも感じているので、障がいがある方もない方も一緒に楽しめるワークショップを企画・運営したりしてIAECさんには関われると良いなと考えています。チャリティー企画を行ったりして、活動資金を集めたりしたいですね。


 それと、笑顔と元気が欲しい時はお役に立てると思いますね。また、ご自身の才能・強みを知る方法や幸福度を上げるヒントなど、一緒に楽しく学びあう場、考える場を作ることではお役に立てるかと思います。やっぱり笑った方が記憶に残るんですよね。参加者を飽きさせない研修の仕方とかを伝えていきたいと思うので、必要な時にはお声掛けいただけたらと思います。


 あと、相模原市在住の方でしたら、主人は理容室をしていて、地域貢献の一環で視覚障害がある方は盲導犬と一緒にご入室可能です。個室なので他の方へ遠慮が要らないです。寝たきりの方のヘアカットも、相模原市の補助券のみ追加料金なしで訪問カットさせていただいています。

OTAGAISAMAサポーターとして活かしたいこと

OTAGAISAMAサポーター会員の皆様へのメッセージ

 お互い様(OTAGAISAMA)って本当にいい言葉ですよね?支援するために、無理してがまんするのではなくお互いの得意を提供し支えあって、ともに幸福感あふれる人生にしていきましょう!

才能開花の一番のきっかけは【誰かのために何かをしてみること】ぜひ、ご一緒しましょう^^

しかも、ワークショップでもシェアしたんですが、与える続ける人が最終的に一番幸せだっていうのは、データでも証明できるんです^^



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いかがでしたでしょうか?

瀬賀さんのような面白い経験と才能を持った方々が、OTAGAISAMAサポーターには沢山いらっしゃいますので、今後も「OTAGAISAMAの輪」にてご紹介していきます。

また次回をお楽しみに!


OTAGAISAMAサポーターへのご入会はこちらから↓↓

https://congrant.com/project/iaec/2313