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今回はOTAGAISAMAサポーターとして応援してくださっている、榎本重秋さんにインタビュー!榎本さんの生まれから、障害者保険を作るに至った経緯を中心に、長年ご活躍されてきた保険業界や福祉業界でのご経験をお話しいただきました!
榎本重秋です。9月で57歳になりました。現在は、ぜんち共済株式会社で社長をしています。東京都町田市生まれの町田育ちで、今も町田市で暮らしています。家族構成としては、父は町田市役所の職員でした。また、私は男女の双子なのですが、栄養をとりすぎちゃったのか、妹は未熟児で生まれました。知的には劣らないのですが、身長はあまり大きくならず吃音がありました。吃音は、今は発達障害に入ります。発育が遅れていたところがあり、幼少期の頃から「妹を守らなきゃいけない」とずっと思っていたため、それが人生に影響をしたのかなと思います。
※画像はイメージです
父が町田市の職員で、「町田は福祉の街」とずっと言われ、障害者がちゃんと暮らせるようにと努力してきた街なんです。今でこそリフト付きの送迎バスは当たり前になりましたが、当時リフト付きのバスを作ったのは町田市が初めてと言われており、町田市に飾られています。
そんな町田市で公立の小学校・中学校・高校と出るのですが、小学校のときは優等生でした。成績も良く運動もできて、学級委員長もしていました。町田は福祉の街ということで、クラスには必ず障害のある子がおり、一緒に勉強したり過ごしたりして面倒を見ていました。「みんなシゲちゃんみたいになりなさい」と言われていたのがこの頃です。
中学校に入るとバスケ部に入って3年間頑張っていたのですが、通っていた中学校が暴力で全国的に有名になってしまった中学校で、先生が護身用でナイフを持っている程でした。優等生であるよりもちょっと拗ねた方がかっこいいなと思ってしまったのがこの頃です。
高校では、町田では一番優秀な高校に入りましたが、各中学校の頭のいい人が集まっていたことでつまらなく感じていました。話していてもダメだなと浮いてしまい、浮いている人間だけで集まって動くようになりました。高校でもバスケ部に入っていましたが辞めてしまい、素行が悪くなったことで親が呼び出されることもありました。高校は卒業できましたが、大学は全部落ちてしまいました。父から「浪人してもいいから大学目指してみろ」と言ってもらい、一浪してなんとか大学に入ったという経緯です。
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大学を卒業して、1989年に外資系の保険会社に入ります。決して保険を扱いたいと思って保険会社に入ったというわけではなく、金融に勤めることがかっこいいという風潮があったからです。銀行と証券会社と保険会社だと消去法で保険が一番かな、と保険会社を選びました。保険でも、生命保険と損害保険の両方ともありましたが、「損害保険かっこいいな」と選びました。また、日本の会社と外資系の会社があり「外資系かっこいいな」と外資系を選びました。そんな基準だけで選んだ会社が、入社した保険会社でした。
かっこいい男性や女性がバリバリ働いていて、「こんなかっこいい姿で働きたい」というイメージが固まり入社しました。
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会社はブラック企業とまでは言わないですが、ノルマなど数字に対して厳しい会社でした。朝早くから夜遅くまで働いて、数字の世界で働く中で保険業界ってこんなに厳しいのかと思い、保険業界にはあまり長くはいたくないと思い始めていました。
そんなときに、たまたま転勤した支店で担当した代理店の方が、障害者保険を世に生み出した人でした。その方は知的障害者の親御さんたちから依頼を受けて、ケガと賠償事故の補償をセットにした保険制度を作っておられました。その方の担当になり、小学校や障害者施設を一緒に回る中で、ヘッドギアを着けて壁にガンガン頭を打ち付けている子どもを初めて見ました。このような知らない世界があったのかと思っていたときに、出会う保護者の方から「いつもこの子たちを助けてくれてありがとう」と口々に言ってもらいました。そして、「保険ってこれほど世の中の役に立っているんだ、じゃあ会社を辞めないでもうちょっと続けよう」と思い頑張るようになりました。
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サラリーマンだったため転勤がありました。そこで、担当していた代理店の方の担当ができなくなってしまいました。先述の通り、この会社でずっと働くことも良くないと思い、2000年に別の保険会社へ転職しました。
転職の際に、「榎本が保険会社を辞める」という噂が流れ、障害者保険を作った代理店の方が私を訪ねてきて、「困っているから助けてくれ」と話されました。どんな話か伺うと、病気したときの生命保険や入院したときの医療保険など、このような商品がないと障害者を守れないというご相談でした。
転職先の会社に相談すると、会社が損害保険会社だったため、保険では引き受けできないと言われましたが、任意の共済事業・共済制度を立ち上げればできるとわかりました。そして、2000年7月にある障害者団体と一緒に、全国知的障害者共済会を作るに至ります。
共済会で、病気でお亡くなりになった際も、病気で入院された際も全てが網羅される共済制度を作りました。この制度を広めようと全国を飛び回っていた中で、私自身も家庭を持ち子供が生まれたり、障害のある子供を持つ保護者の方々と多くの話を聞いたりする中で、「これからずっとこの仕事をやっていこう」と思いました。
そして、38歳のときに保険会社を円満退職し、奥さんや義父からの後押しもあり、共済会に入っていく大きな決断をしました。
しかし、甘くはありませんでした。当時、ある共済会が不祥事を起こしたことで、金融庁が保険業法を改正し、規制していこうという機運になりました。そこで、私たち共済会を運営する団体は保険会社になるか事業をやめるかという決断に迫られました。
事業を辞めるということは、障害者の方々が入る保険もなくなってしまい、何の補償もない暗い時代に戻ってしまいます。そのため、共済会の理事会で何度も話し合うことで保険会社を目指そうという決議がされました。
当時、保険会社経験者が私しかいなかったため、私が41歳のときにぜんち共済株式会社という社名で、保険会社化させようという流れになりました。平仮名でぜんちなのですが、これは全国知的障害者共済会の略称から取っています。共済会を立ち上げた当時から、「ぜんち」や「ぜんち共済」と呼ばれていたので、会社名にしています。障害者の方にも読めるように平仮名にしました。
▶せんち共済株式会社ホームページ
設立当時は大変でした。保険会社にいたときは、これまで営業しか経験したことがありませんでした。保険商品を作ったことがないし、約款なども作ったことがありません。保険料計算も専門外で、会社の経営も経験したことがなく、全てが一気にのしかかってきました。期限がある中で、少額短期保険業の登録を受けなくてはいけなかったため、毎日がプレッシャーとの戦いで本当に辛い日々を送っていました。当時はトラブルばかりで「自分がこの世の中から居なくなっちゃえばいい」と思って、本当に電車に飛び込む寸前まで精神的に追い詰められた生活でした。
グラフには人生のどん底がありますが、それがこの時期です。会社を設立するためのお金集めや人集め、少額短期保険業の登録を受けるなどが辛かったんです。
特に辛かったことは、人間関係でした。女性陣と男性陣との社員間で関係が悪く、ギスギスした人間関係しか無い会社になってしまいました。社員間で私が板挟みな状態で、当事者間の争いの中、両方から文句を言われているという状態でした。少額短期保険業の登録を受けた時にも、社員の誰一人として拍手がなく喜びもありませんでした。大変な時期でした。
その後は、心療内科に通って心の病を治すという期間が必要でした。そして、多くの新しい仲間に入って来てもらい、会社を立て直す中で良い関係づくりができるようになりました。優秀な社員もいっぱい入ってきてくれたおかげで、気持ちよく仕事をさせてもらっています。
現在は社員22名、パートと派遣の方5名の計27名の体制でぜんち共済株式会社は、知的障害や発達障害の方に専門の保険会社として、全国に55,000人のお客様を抱えて仕事をしています。社員のうち、2人の障害者の方が働いており、一人は正社員の國井さんと言います。
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今回インタビューに同席している國井愛一郎です。ぜんち共済株式会社で働いています。昨年の4月から正社員として働いており、それまではパートとして働いていました。ぜんち共済株式会社は4年目になります。
仕事の内容としては、書類をスキャンしてデータに保存している作業が多いですが、今は新しい仕事もチャレンジさせていただいています。
学生時代は、小学生から高校生になるまで野球をしていました。中学1年生のときに学校に通えない時期があり、保健室登校をしていた時期もありました。当時の親友が頻繁に保健室に来てくれて、「一緒に教室へ行かないか」とプリントや昼食を毎日持って来てくれました。中学2年生のときに、教室に通えるようになり中学を卒業することができました。高校では、通信制の高校に通い、3年間野球を続けました。先生からよく怒られましたが、無事に卒業することができました。高校の先生から「接客業へ行きなさい」という助言があったため、卒業後は接客業に関する専門学校へ進学しました。
社会人時代には、接客業としてスーツ販売会社で2度働き、携帯販売会社で1度働きました。最初のスーツ販売会社では5年間パートとして働きましたが、次の携帯販売会社とその次のスーツ販売会社では1~2年ほどで辞めてしまいます。その中で、30歳のときに障害の認定を受けました。そこで初めて障害があることを知りました。
そのような中で、33歳のときに、ぜんち共済株式会社にパートとして就職しました。就職活動する中で、ある団体を通じて就職活動を行っていたのですが、そこで紹介を受けました。パートの方が一人、偶然辞めるタイミングだったため、就職するに至りました。
マイブームは自分探しの旅です。中小企業家同友会という中小企業の経営者が勉強する会に参加しています。コロナ前までは、その中小企業家同友会の仲間が全国にいるため、全国を飛び回ることがコロナ前までのスタイルでした。
ところが、コロナ禍になってからは移動ができなくなったため、引きこもり生活をしていました。最近は少しずつ緩和されてきたので、全国色んな所へ行って、色んな人に会う「出張」を復活させました。出張生活を私は、自分探しの旅と呼んでいるんです。自分探しの旅の中で、今後見つけていかなければならない後継者について考えたり、会社はこのままの体制で良いのかと考えたりしています。将来のビジョンを探しているという感じです。
リフレッシュは、近所の温泉に行くことです。温泉に入ったりサウナに入ったりして骨休めすることが大好きです。また、地元の友人と2週間に1回はウォーキングしています。多いときは、丸一日歩いています。
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いかがでしたでしょうか?
榎本さんのような面白い経験と才能を持った方々が、OTAGAISAMAサポーターには沢山いらっしゃいますので、今後も「OTAGAISAMAの輪」にてご紹介していきます。
また次回をお楽しみに!
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